山﨑さんの命日

 山﨑さんの命日は、慶応4年1月13日(旧暦)だと言われています。

現在のグレゴリオ暦だと、1868年2月6日です。

鳥羽・伏見の戦いの負傷で亡くなったとされています。


■鳥羽・伏見(とば・ふしみ)の戦いとは…

 時:慶応4年1月3日(1868年1月27日)~1月6日(1月30日)

 所:京都南郊の上鳥羽(京都市南区)・下鳥羽・伏見(京都市伏見区)等

 人:明治新政府軍(薩摩藩・長州藩)対 旧幕府軍(新選組等)


慶応3年12月、大政奉還・王政復古の大号令により江戸幕府が消滅。

伏見では旧幕府軍と新政府軍が対峙。

明けて慶応4年1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発しました。

新選組は白兵戦に出ましたが、新政府軍の銃撃に遭い、また、薩摩藩兵の砲撃で奉行所が炎上した為、淀城下に退きました。

4日、新政府軍が朝廷からの錦の御旗を掲げたことにより官軍となり、旧幕府軍は賊軍となってしまいました。

それにより、淀藩は旧幕府軍の淀城入城を拒否。

仕方無く新選組は、千両松の堤防で新政府軍を迎え撃ちますが、ここで、井上源三郎さんは戦死、山﨑さんも重傷を負います。

大坂から江戸へ向かう軍艦・富士山丸(ふじやままる)の中で山﨑さんが戦死したとされるのが、1月13日です。


艦内で亡くなり、紀伊沖にて水葬された際、局長の近藤さんは号泣したとされていますが、どこまでノンフィクションかは分かりません。

※永倉新八・島田魁らの手記では水葬とは記載されていないようです。



以下、各史料からの引用です。



永倉新八『新選組戦場日記 浪士文久報国記事』

「山崎丞、淀城攻防戦で戦死」

「余儀無淀城下江火ヲカケ、残リ橋本宿引揚ル。 

此時、新選組副長助勤山崎丞其外討死多シ」


(仕方無く淀城下に火をつけ、残った者は橋本宿に引き上げる。

 この時、新選組 副長助勤 山﨑丞 その他、討死多い)



近藤芳助『新選組往事実戦談書』

「山崎は重傷にて大坂八軒家京屋宅にて確と見認(みと)め候。 

遺骸は大坂にあらんか」


(山﨑さんは重傷で、大坂八軒家京屋の家でしっかりと見ました。

 遺体は大坂にあるのではないか)



御香宮神社所蔵『戊辰東軍戦死者霊名簿』

「負傷後船中において死 諸士調役 山崎進(丞)」


(負傷した後、船内で死亡 諸士調役 山﨑丞)



子母澤寛『新選組遺聞』

「船中で死亡した山崎は水葬に付された」



「現実に二人(佐々木只三郎・桜井大三郎)が水葬にされた以上、山崎の水葬も事実であった可能性は極めて高い」



(上記いずれも、『新選組戦場日記 浪士文久報国記事』より抜粋)




「大坂浪士 銃瘡死 副長助勤 山崎烝」

(永倉新八『新撰組顚末記』より抜粋)




松本良順『蘭疇』

「山崎丞ナル者、(中略)後チ、伏見ニアリテ、納涼ノ夕、流弾ニ中リテ即死ト聞ク。為メニ酸鼻セリ」


(山﨑丞という者、(中略)その後、伏見で、夕方、銃弾に当たって即死と聞いた。痛ましく悲しい)


(『新選組史科大全』より抜粋)




「十三日 慶応四年戊辰正月淀戦争内死

顕光院貫月義実居士

新次郎ノ兄ニシテ俗名丞ト称シ中途性ヲ山嵜ト称シ

於京都新選組ニ入助勤役ヲ勤ム。

淀ノ戦争銃丸ニ中リ其後旧幕府軍艦開陽ニ乗

江戸表ヘ引払ノ途、不幸ニシテ艦中ニテ死ス。

海軍ノ令ヲ以テ海中ニ葬ム」


(13日 慶応4年正月 淀にて戦争で死亡

 戒名 顕光院貫月義実居士

 新次郎の兄で、生前は丞と言い、途中で山﨑と変えて

 京都で新選組に入り、助勤を勤めた。

 淀の戦争にて銃弾に当たり、その後、旧幕府軍の軍艦開陽に乗り

 江戸へ引き払う途中、不幸にして艦内にて死亡。

 海軍の常で海で水葬にした)


(林家過去帳より抜粋)


※山﨑さんは本名:林と言い、苗字を山﨑として新選組に入隊したようです。

※開陽ではなく、富士山丸に乗船したとされています。



※かっこ内の訳は大体こんな感じ、の意訳です。


史料からも分かる通り、艦内で亡くなった・千両松で即死した、水葬・陸葬と諸説あり、ハッキリとはしていません。



以上が、山﨑さんの命日についてでした。

こんな寒い時期に亡くなったのですね…

より悲しさが増しますね…

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